第参拾話「早春の到來」
「それにしても、普通チョコあげる人に選ぶのに付き合ってもらうか?」
「うぐぅ〜、だってボクしばらく1人で街を歩いたことなかったから不安だったんだよ〜」
あゆが目覚めてからもう2週間になる。目覚めてから最初の1週間はとにかく大変だった。「昏睡状態の少女、7年振りに目覚める」、「現代の眠り姫!眠りに付いていた少女が恋人との邂逅で目覚める」など各マスコミの取材の雨嵐であった。お陰で私達は全国的に有名なカップルに奉られてしまった。それで今日はバレンタインの前日で、あゆに一緒にバレンタインのチョコ選びに付き合って欲しいと言われた。今日は第2土曜日で学校は休みなので、私はとりあえず付き合う事にした。
「何だかんだいってまだ子供だな〜」
「うぐぅ〜、ボクもう子供じゃないよ〜」
「せめてその『うぐぅ〜』という口癖を直さん限り大人とは認められんな…(C・V池田秀一)」
「うぐぅ…」
しかし、そうすねるあゆを見て私は少しドキッとする。腰まで延びた髪に秋子さんが新調した服を来たあゆは、背が小さいながらも年相応の美しい女性に見えたからだ。
「お二方、こんにちはですー」
「あっ、佐祐理さん」
「こんにちは、佐祐理お姉さん。佐祐理さんもバレンタインのお買い物?」
「ええ。チョコレートの材料集めに。盛大なチョコケーキを作る予定ですので楽しみにしていて下さいね、祐一さん」
「えっ?既に私にあげるって決定しているのですか?」
「ええ。バレンタインに姉が弟にチョコレートをあげるのは普通の行為ですからー」
「うぐぅ〜、ボクだって負けられないよ〜。ボクも手作りのチョコにするよ」
「やめとけ、お前が作ったら私の命がいくつあっても足らん!」
「うぐぅ……」
「あゆちゃん、良かったらこれから佐祐理が簡単な作り方を教えてあげましょうか?」
「えっ?本当に!ありがとう佐祐理お姉さん!!」
「良かったら祐一さんもお茶でもどうです?」
「ええ。ではお言葉に甘えて…」
成り行きであゆが佐祐理さんにチョコの作り方の教えを請う事になり、私もそれに付き従う事となった。佐祐理さんの案内で材料をかき集め、一路佐祐理さんの家に向かった。
「はいっ、どうぞ祐一さん」
「ありがとうございます佐祐理さん。それであゆの方は?」
「一通り作り方を教えて見ましたら後は1人で頑張ってみると言っていました」
「果たしてどうなる事やら…。それにしても佐祐理さん、本当に良かったのですか?あゆをこちらで預かる事になって……」
「ええ。本人がそうおっしゃるのですから」
聞く所によると、7年前から今日に至るまでのあゆの入院費は全て倉田家持ちだったという。身寄りがいないあゆを預かっている立場なら当然自分が面倒見るべきだという一郎党首の配慮らしい。
「でも、佐祐理さんはずっとあゆの面倒を見て来たのですよね…」
あゆが眠っていた7年間、佐祐理さんは毎日のようにあゆの看病を続けていたという。事ある度に病室の花を取り替えてあげたり、あゆの体を拭いてあげたり、髪が伸びてきたら切って整えてあげたりと…、とにかく最大限にあゆの世話をしていたとの事だ。また、あゆの髪が腰まで延びているのは、嘗て佐祐理さんがあゆの事を男の子みたいだと言い本人の気を悪くした事を良く思わず、女の子に見える髪の長さにしてあげようと気を配っていたからだという。
「本当に本当に長い間ありがとうございました…。それに比べて私はあゆの事を忘れて……」
「仕方ありませんよ…。それに私があゆちゃんの世話をしていたのは、弟のように何もせず目の前の大切な人をもう失いたくないと思ったからですし……」
「佐祐理さん…。そう言えば佐祐理さんは何処の大学に進学するつもりなのです?」
場の雰囲気を明るくする為、私は話題を変える。
「あゆちゃんが目覚めるまではこの街を離れる訳には行かないと思っておりました。ですが、私の役目はもう終わりました、これで私も自分の道を行く事が出来ます…」
「それで何処へ?」
「とりあえず東大にでも行こうかと」
「と、東大っ!?」
「ええ。私の父は東大を2度受けましたが見事玉砕しました。私は幼い時から父を超える事を夢見てきました。ですから東大に進学するのは父を超える第一段階なのです」
「うぐぅ〜、佐祐理さ〜ん」
「あらあら、どうやら祐一さんの予想が当たったようですね。では後程…」
あゆの手伝いをする為佐祐理さんは席を外し、私は暫く一人で物思いにふけっていた。
(…佐祐理さんは東大を目指すのか…。私はどうするかな……)
正直、今まで大学の事など考えた事もなかった。別に行くなら何処でもいいと思っていたが、目の前で大きな志を持った人間を見て色々と感化された。だが、「ずっとあゆと一緒にいる」、そう言ったからには遠くの大学に進学する訳には行かない。
(風の噂で聞いたけど、西澤潤一氏が新設された県立大学の学長を務めているって話だったな…。とりあえずそこでも目指すか……)
その後佐祐理さんの指導は夕方に差し掛かるまで続けられ、帰路に就いたのは6時を回った。
「うぐぅ〜、ボク頑張るよ!」
「私だって負けないよ!」
そして向かえたバレンタイン当日。結局あゆはチョコを手作りする意志を頑なに変えず、また名雪も私に手作りのチョコを渡すとの事から、両者は互いに合間見える事となった。
「勝負あったな。この勝負9割方名雪の勝ちだな」
「うぐぅ…。目に物見せてあげるよ祐一君」
「祐一に勝ちだといわれたからには負けられないよ!」
「ピンポーン!」
「おっ、誰か来たみたいだな、じゃあ2人とも頑張れよ!」
両者とも私の為にチョコを作っているのだが、他人事のようにその場から離れ玄関へと向かう。
「こんにちは、御久し振りです、お兄様っ!」
「わっ、栞ちゃん!」
玄関を開けるといきなり栞が抱き付いて来た。
「栞ちゃん、いきなり一体…」
「私、ようやく病を克服しました…。これもみんなお兄様のお陰です……。それで今日は今までのお礼の全てを込めてお兄様にチョコを作って来たのです!」
「えっ、あ、ありがとう栞ちゃん」
「そこの女、待ちなさいよ!!」
「ま、真琴!?」
刹那、私の前に暫く消息を絶っていた真琴が突如姿を現した。
「私以外に祐一兄様を兄様呼ばわりするとはいい度胸ね…。名を名乗りなさい!!」
「美坂栞です。所で貴方は祐一お兄様とはどういった関係で?」
「私は真琴よ!貴方ね…、私の他に兄様の心の中にあった妹分は…!!」
「成程…。お兄様の心が私に完全に向いていないとは常々思っていましたが、他に人が居たのですね……」
「いざ尋常に勝負!勝った方が一番の祐一兄様の義妹よ!!」
「望む所です…」
「オイオイ……」
静止しようとした私の努力も空しく、2人は激突した。どう考えても真琴の圧倒的勝利に終わると思うのだが…。
「クッ…!!」
だが私の予想に反し、栞は激流たる真琴の拳を清流の如き動きで受け流した!
「激しい剛拳は清流で受け流すのが常ですよ」
「栞ちゃん…、何時の間にそんな芸当を……」
「元々こういうのに憧れていたのですが、病を克服してから身体を動かしていたら自然に出来るようになったのです」
どうやら栞に力を分け与えた時、同時に私の体の中に流れる源氏の血をも伝えてしまったようだ。
「クッ、こうなったら…!!」
激流たる剛拳では栞は打ち倒せないと思ったか、真琴は突如戦法を変える。
「貴方には、この水鳥の様な動きが見切られるかしら!?」
北斗神拳から南斗水鳥拳に戦法を変える真琴。もっとも真琴が7年振りに私と邂逅した時は格好から行動に至るまでレイに酷似していたので、この方が真琴のイメージに合うには合う。
「あははー、こんにちはですー、祐一さん。チョコを渡しに来ましたー」
「あっ、こんにちはです、佐祐理さん。おっ、舞も一緒か」
「私も祐一にチョコを渡しに来た…」
「そうか、じゃあ2人ともあがってくれ」
激闘している真琴と栞を後にし、私は2人を家の中に招待した。
「あっ、祐一お客様?」
「お久し振りです、名雪さん。今日はバレンタインなので祐一さんにチョコを届けに来たのです」
「うー…強敵が現れたよ……」
「ところでそっちの方はどうなった?」
「うん。最初は勝負っていう感じだったけど、あゆちゃんが手間取って困っていたから、途中からは私がアドバイスしながら2人で協力して作っているよ」
「そうか。本当にすまないな、名雪にはいつも色々と手間を掛けさせて……」
「気にする事ないよ。祐一は私にとって大切な人だけど、あゆちゃんも同じくらい大切な人だし」
「ハァハァ…。気が付けば兄様はもう家の中に入っていたのね…。栞さんこの勝負はお預けね…」
「ええ」
暫くして真琴と栞が家の中に入ってくる。それにしても息を切らしている真琴とは対照的に栞は息1つ乱していない。私でさえ五分の闘いがやっとな真琴の息をあがらせかつ自分は乱していないとは…、恐るべし清流の拳…!
「はい兄様、これが私のチョコよ!」
と、真琴が取り出したチョコは、市販物のチョコがスーパーロボットの形をしたチョコだった…。
「真琴、いいセンスしてるぞ…。でもこれだと勿体無くて食うのを躊躇うな…」
「お兄様これが私のです」
と、栞が取り出したチョコは、ハート型の手作りで真中にホワイトチョコで「愛しのお兄様へ」と文字が刻まれていた。
「う〜ん…悪くないけど『お兄様』っていうのはやっぱり恥ずかしいな〜…」
「私はこれ…」
と、舞が取り出したのは市販の動物型のチョコが詰め合わせになっていたものだ。
「動物型っていうのがいかにも舞っていう感じだな」
「あははーっ、これが私のです〜」
と、佐祐理さんが取り出したのは大きなチョコレートケーキで、真中のネームプレートには「私の大切な弟へ」という文字が刻まれていた。
「豪勢なチョコレート…。流石佐祐理さんだ……」
「あうーっ、これには敵わない〜」
「来年はこうは行きませんよ…」
「負けた…」
自分自身佐祐理さんのが一番評価が高いと思ったが、どうやら他の女性型も反応を見る限り同意見のようだ。もっとも、それぞれのチョコにそれぞれの私に対する気持ちが込められているのだから、実質甲乙は付けられないだろう。
「では佐祐理達はこの辺りで…」
「もう帰るんですか?もう少し居てもいいのに……」
「バレンタインの日は恋人同士で時間を過ごさせたいですから」
「そういう事……」
つまり、私とあゆへの配慮という訳だろう。そんな理由で佐祐理さんと舞、栞は早々にその場を後にした。
「お待たせっ、祐一君!」
そして3人が帰ったのと入れ代りに、あゆがチョコを完成させ私の前に現れる。
「あっ、あゆちゃん完成させたみたいだね。じゃあ私も2階にあがるね」
「じゃあね、兄様」
そして名雪と真琴も私に配慮してかそれぞれ2階へと昇った。
「名雪さんにアドバイスを受けながら一生懸命作ったんだけど、どうかな?初めてだから形はあんまり良くないと思うけど……」
あゆの作ったチョコはいかにもあゆらしく、タイヤキの形をしていた。もっとも、型から起こした訳ではないであろうから、お世辞にも形が良い物とは言えない代物であった。しかし、形が整っていないからこそ、あゆの必死さがこれでもかとチョコから感じられる。
「美味しそうなチョコだな…。良く出来てるよ、あゆの気持ちが良く伝わってくる…」
「本当っ!?ありがとう祐一君……」
他にも色々チョコを貰ってどれから食べるか迷っていたが、本人が目の前に居るのだからあゆのから食べる事にした。
「どう?祐一君…」
「この中に入っているのは何だ…?」
「えっ、こしあんだけど?」
「チョコの中にこしあん入れるな〜!」
「ゴメン…、つぶあんの方が良かったかな?」
「そういう問題じゃない!何処の世界にチョコの中にアンコを入れる奴がいる!?デカルチャー!!」
「うぐぅ〜、だって、チョコもアンコも甘いから両方合わせればもっと甘くておいしくなるかな〜って……」
「1足す1が2や3になるとは限らないんだぞ!!」
「うぐぅ…」
「ま、来年はもっとまともなのを作ってくれよ…」
「うん!ボク頑張るよ!!」
一先ずあゆをなだめさせる事は出来たしかし、作ってもらったからには全て食わねばならないだろう。果たして私の胃は夕食まで持つだろうか?
「ふふっ、それは災難でしたわね」
「うぐぅ…、秋子さんまでひどいよ〜」
夕食後、あゆが渡したチョコの件に関しての話題でしきりに盛りあがっていた。
「名雪〜、お前が居たんならもう少しまともなのを作らせろよ〜」
「うーっ、だって本人の自主性を重んじた方がいいと思ったから…」
「私の生存権に関わる問題だぞ!?」
「所であゆちゃん、チョコは予め味見したのかしら?」
「あっ、そういえば祐一君に渡す事に精一杯でやってなかったよ……」
「ふふっ、私が主人に初めて渡した時と同じですわね…」
そう言い終えると秋子さんは1度目を瞑り物思いに深ける。そして、目をゆっくりと開くと同時におっとりとした語り掛ける口調で昔話を語り出す…。
「あれは私が高一の頃、当時主人は私の担任でした…。規律正しく道徳心と愛国心に長け、若いながらも学校の先生の中でも一目を置かれた教師でした……。そんな主人にいつしか私は惹かれるようになり、その年のバレンタインに思い切ってチョコを渡す事を決心しました…。ただ、主人は普段から日本の文化や精神を誇りにしていました。そんな主人が果たして西欧、キリスト教の行事であるバレンタインのチョコを受け取ってくれるだろうか…?そんな不安を抱えながらチョコ作りに専念していました。そしてバレンタインの当日、私は校門で主人が出て来るのをじっと待ち続けていました…。校内で渡すと周りの目が気になるから、放課後人気の少なくなった校門で渡そうとずっと待ち続けていました…。そうしたら、『こんな遅くまでどうしたんだい?』と主人の方から声を掛けて来たのです。私はあまりに突然の出来事に慌てふためいて、『あの…その…受け取って下さい!!』と言葉にもならない言葉で主人の目の前にチョコを差し出しました。その後私は暫く恥ずかしさのあまり、手を主人に差し出したまま下をずっと眺めていました。主人はちゃんと受け取ってくれるだろうか…?そんな不安を抱えたままで……。そうしたら主人がたった一言、『どうもありがとう、有難く頂きますよ』と答えてくれました…。私は嬉しくて嬉しくて言葉も出ませんでした……」
もう20年も前の事だろう…、その思い出をまるで昨日あった出来事のように話続ける秋子さん。何十年も前の事が昨日のように感じられる春樹さんとの思い出…、それだけ秋子さんにとって春樹さんは大切な人だったのだろう……。
「…それで主人は最後に、『それにしても、バレンタインに生徒からチョコを貰ったのは初めてだ』と言いました。あれだけ魅力的な先生なのだからもっと貰っている筈だ…そう思い詳しい話を聞きました。そしたら何と言ったと思います?『やはり君もそう思っていたか…。いいかい?そもそも日本という国は過去から今に至るまで様々な文明や文化の影響を受けて来た。ただ、日本人はそれらをそのまま受け取ろうとはせず、自分達に必要な部分だけを断片的に摂取した。また、それだけでは済まさず時にはそれを元に自分達独自の文化や文明を築き上げた。良い例が漢字だ。日本人は漢字をそのまま受け取ろうとはせず漢字の音だけを取り入れ、それを本来の日本語の音に合わせて読んだ。そしてそこからかな文字が生まれた。そして元の漢文はオコト点を付けて日本語で読むに至った。元々バレンタインは基督教の行事で、その日に殉教したバレンタインという司教の死に殉じる行事だった。それを日本人は形を変えて今のように女性が恋する男性にチョコをあげる日にした。我が国は大陸の果て位置し、ここから東には文化が伝わらなかった。我が祖国は文化の終着点だ!この国にはあらゆる文化が舞い降り、そして違和感無く融合されて行く…。バレンタインも今では日本の誇り高き文化の1つだ、そんな文化を私が受け取らないとでも思うかね?』そう言ったのですよ。その時思いました、嗚呼、やはりこの人は根の根から教師たる日本人なのだろうと…。そうして今以上に私の主人に対する想いが高まって来ました…。でもその次の日、主人は体調を崩して学校を休んだのです…。家に帰ってからチョコの原材料を味見してみたらとても食べられる物ではありませんでした…。どうやら手違いで塩と砂糖を間違えて入れてしまったのです…。主人に対する想いがあまりに強過ぎて味見をするのをすっかり忘れていたのです……」
「以外ですね…。秋子さんが料理でミスを犯すなんて……」
「いえ、当時私は料理が苦手でしたから」
「えっ!?」
「全てはそれからですよ…。来年はもっとまともなのを、美味しいのを作らなくてはならない…。その日を境に私は他の料理も含め必死で勉強しました。いつか主人のお昼ご飯のお弁当を作られるようになりたい…、そんな想いも込めて……」
「ねえ、秋子さん…。ボクもがんばれば秋子さんのように料理を作れるようになれるかな…?」
「なれますよ、自分が食べてもらいたい人が美味しく食べている姿を想像して一所懸命に頑張れば…」
「うん!ボクがんばるよ!!」
「そろそろ片付けを始めなくてはなりませんね…」
そう言い、秋子さんは席を立ち夕食の片づけを始める。
「ずっとだよ…」
「えっ!?」
「お母さん…、父さんが居なくなってからもずっとバレンタインのチョコレートを作り続けているんだよ……」
「ピンポーン!」
「あっ、誰か来たみたい」
夕食後リビングで名雪達とくつろいでいると玄関のベルの鳴る音が聞こえた。
「こんな夜分遅くに訪ねてくるなんて、一体何の用だろう…?」
「うん、私ちょっと見てくる」
そう言い、名雪は玄関に向かう。
「はいっ?どちら様…?う、うそ…!?」
「どうしたんだ名雪?」
玄関から折り返し、急いで台所に向かう名雪に声を掛けた瞬間、私はある気配を感じた。
「この気配…感じた事がある…。この威厳と温かみに満ちた気配…、そんな、まさか…!?」
「どうやらようやく帰って来たみたいね…」
「えっ!?」
「お母さんお母さん!!」
「どうしたの名雪?そんなに慌てて…」
「お父さんが、お父さんが……」
「只今帰った…。すまなかったな、遅くなってしまって…。夕食はもう片付けてしまったかな…?」
「ええ…。もう帰って来ないものとばかり思っていましたから…」
「お母さん…」
「名雪、今は2人だけにしてあげるんだ……」
「えっ!?う、うん……」
「…もう10年になるのだな……」
「ええ…。今まで何をしていたのか…?それは問いません…、私の前にどうしても現れなかった事情があるのでしょうから……」
「そういえばまだ言ってなかったな…。只今、秋子……」
「お帰りなさい春菊さん……」
「遺書に『貴方はまだ若い、だから私の事は忘れて新しい愛に生きて下さい』そう書いたがやはり忘れられなかったのだな……」
「忘れられる筈ないですよ…。世界で一番誰よりも貴方を愛しているのですから、忘れられる筈ないですよ……。それに貴方も私の事を忘れられなかったからこそ、私が瀕死の状態に陥った時に私の枕元に姿を現したのですね…。あの時の貴方はやはり現世に生を賜っている貴方だったのですね……」
「ああ…。これはバレンタインのチョコレートか?」
「ええ…。貴方に初めてあげた時と同じ形のチョコレート…。私の貴方に対する想いはあの時から変わっていない…その想いを込めて……」
「有難く受け取っておくよ、秋子……」
「ううっ…ずっと、ずっと貴方を待ち続けていましたよ…。何回ももう帰って来ないと思う事がありました…。でも…でも…、諦めず再び貴方に出会える日を夢見てずっと待ち続けていました…。春菊さん、春菊さんっ!!……」
「良かったよ…お母さん、自分の大好きな人とまた暮らせるんだね…。本当に良かったよ……」
「10年か…。凄いな…よくそれだけ生きている事を信じて想い続けられていたな…。私は7年すらあゆの事を信じられなかったというのに……」
「仕方ないよ、祐一君はボクが倒れたのを目の前で見てしまったんだから…。やっぱり自分の大好きな人が自分の目の届かない所でいなくなったら、それを信じる事なんてできないよ……」
「そういえば真琴、さっきのお前の素振り、まるで春菊さんが最初から帰って来るのが分かっていたような素振りだったな?」
「そうそう、その事に関して兄様に見せたい物があったわ。ちょっと私の部屋まで来てくれる?」
「あ、ああ……」
真琴に案内され、私は2階へ昇る。
「はい、これよ」
真琴から渡された物、それは戸籍謄本だった。
「何々…相沢真琴っ!?真琴、これは一体……」
「見ての通りよ。私、相沢家の養子になったの。これで私は公的に兄様の妹よ。ちゃんとご両親の了解を受けて来たわよ。その関係で暫く消息を絶っていたけど……」
「ちょっと待て!私の両親に了解を得たのは百歩譲るとして、戸籍そのものすらないお前がどうして正式な手続きを受けられるんだ!?」
「作ったのよ。何年も前から私が普通の人間として生きているような形で」
「作った!?おい、それって偽造じゃないのか!!」
「ええ。だからちょっと春菊さん伝いで色々と取り計らってもらったのよ」
「取り計らってもらった…?そんな事が可能なのか!?」
「ええ。そしてそれが春菊さんが今まで死人を装わなければならなかった理由……」
その後、春菊さんの10年振りの帰宅はマスコミで報道され、警察も当時の発表を操作怠慢による過失だと謝罪した。そして時を同じくして、秋子さんを事故に遭わせた日から行方不明だった久瀬が、山中で凍死体で見つかったという報道が流された…。
私の知らない何処かで何か大きなものが蠢いている…、そんな気がしてならない……。
…第参拾話完
戻る